誰でもが文字を書いて発信できる世の中になりました。
祖父が自費出版をした1978年の本が手元にありますが、40年前になるんですね。
当時でも自費出版はお金さえ出せば誰でもできました。
1冊分の原稿が書ければよかったんです。
今は、ネットに限定すれば、お金をかけなくても世界に向けて発信することができます。
1冊分の文字が書けなくても、例えば5文字でも、140字でもいいんです。
外に向けて発信することが容易になりました。
では、その内容はどうでしょう。
氾濫する文字情報の中には、様々なレベルのものがあります。
私については、普段は、自分のしたこと等を簡単にまとめて、ブログで発信するだけなので、知的レベルが高いとは感じられないと思います。
人間は誰しもが「自分は普通。」と思いたいものです。
学生時代成績があまりよくなかった人も、社会に出て一人前に暮らしていると、自分は普通だ、と思ってしまうんでしょうね。
公立小学校・公立中学校にはあった顕著なる学力差は、受験をして均質な学力の持ち主が集まった高等学校への進学により、その学力差が少なくなります。
さらに。受験をして大学に進学することにより、より均質な学力差の少ない状態になることは自明の理です。
さて、社会では、学歴によって区別をするのは悪いという風潮があり、一見、みんなの頭の出来は同じだと思わせています。
でも、本当は違うんです。
小学校のころクラスにいた「満足に作文も書けないレベルの同級生」も、今はネットで文字情報を発信しているんです。
文法がおかしかったり語彙が少なかったりする文章も、ネットでは見かけます。
なぜ、今になってこんなことを書いたのでしょう。
それは、文章から透けて見える「知性」が、さまざまだからです。
誤字が多い文章を書いている人は、言葉に対し、感性が鈍い人です。
読みやすい文章を書く人は、言葉を自分のものにしている人です。
言葉の意味をちゃんと理解し、本人が咀嚼しているからこそ、平易な文章になります。
ところで、言葉遊びのセンスがあると、暮らしも楽しくなります。
商業ポップで先日笑った言葉があります。
「春は揚げ物」。
天ぷらコーナーに書かれていた言葉です。
これを読んで、枕草子の冒頭の言葉を思い出した方も多いでしょう。
私は枕草子を思い浮かべて笑いました。
こういう言葉遊びも、知性がないと楽しめませんね。
知的レベルがさまざまな人がいるのは、もうどうしようもないです。
先ほどの例も、枕草子を知らなければ通じませんね。
知っていることは、強みです。
知性があることは、長所です。
そして、言葉に敏感でその背景を感じることができる人は、今のように文字情報があふれていても、自分の立ち位置を見失わないと思います。
さまざまな文章に触れ、内容に感化されたり新たな出来事を知ったりすることで、私たちは自分自身を豊かにしています。
文法が正しくない文からも、内容は得るものがあることもあります。
でも、美しい平易な日本語で語られた方が、より内容が頭に入ります。
私も、平易な言葉で言葉を語りたいと思っています。
こういう発言がありました。
「小学校高学年を対象に想定して文章を書くと、多くの人にほぼ通じる。」と。
ある意味真理ですね。
私は高学年を教えていたこともありますので、教科書の文章のレベルもわかります。
見習いたいと思います。